カワイイ・メタルが世界を行く(前半)
[Fakker誌の記事(チェコ語)の英訳からの重訳です]
編集者のメモ(Fakker誌のP.1)
まずはじめに、日本からの3人のカワイイ女の子たち—BABYMETAL—は、メタルといかなる関わりもなかった。メタルが何かも知らなかったし、初めてメタルを聞いたときには、その音の大きさにただ怖くなってしまった。日本人アイドルの多くと同様に、3人はしばらくすれば簡単に忘れ去られていたかも知れない。でもそうはならなかった。それまで3人がエレクトリック・ギターを見たことがあったのは楽器店だけだったが、マネージャーが何がメタルなのかを教え始めた。それから物事が動き始めた。竜巻が渦を巻き始め、毎年どんどん速くなっていった。まず日本を席巻し、それから英国、そして最近はアメリカでも暴れ回り始めた。3人はやがて私たちの国にやってくるかも知れないので、準備をしておくのが賢いだろう。私たちの特集はBABYMETALに関するすべてを取り上げている。
特集:カワイイ・メタルが世界を行く
これは簡単な記事ではない。血と汗と涙が待っている。ドライな音楽理論、忘れられた日本のポップ、タレントショー、そしてソーセージ。そしてBABYMETAL。そしてメタル、ベビー。俺たちの愛するジャンルは二度と同じままではいられない。
君が決して知りたくなかったJポップに関すること
1957年に16歳のジョン・レノンという男が、リバプールで友人たちと一緒にバンドを組み、これが唯一無二で絶対的に代わりのないTHE BEATLESとなった。数年前の1953年にエルビス・プレスリーがSun Recordsレーベルを訪れ、数分のレコーディング・スタジオ料金を支払った。BABYMETALとどのような関係があるのかって? 忍耐強くならないとダメじゃ、若きパダワンよ。数ページ先でBABYMETALの話をするから。まずアメリカと英国に戻ろう。そして残りの欧州とアジアにも。なぜならレノン・マニアとプレスリー・マニアが全世界を魅了したからだ。その中には、レノン、プレスリー、そして仲間たちが地元の音楽シーンを席巻した日本も含まれる。
レノンやプレスリーの前に日本にはポップ音楽が存在したのは明らかだ。ブルースやジャズ、気まぐれなスパニッシュ・ギター、通常のオーケストラ、そして"恋は海辺で"や"酒は涙かため息か"といった曲名を持つ。ただのポップだ。だが、私たちの西欧の耳には少し違って聞こえる。普通じゃない。
子どもの頃に木琴を叩いたことがあれば誰でも親しみのある、おそらく最も古い音楽スケールであるペンタトニック・スケールから生まれたものだ。ペンタトニック・スケールは、5音に基づいており、伝統的な日本の音楽ばかりでなく、既に述べたモダン・ジャズやブルースにも十分なものとなっている。THE BEATLESの"抱きしめたい"やエルビス・プレスリーの"ハートブレイク・ホテル"は、日本のミュージシャンに異なったアプローチを示した。
そして(日本人が魅力的なロカビリーと名前を変えた)ロッカビリー・マニアが始まり、人々は、日本では以前はほとんど使用されなかった7音の全音階を使い始めた。日本のポップ音楽は、伝統の影響下にあり、ペンタトニック・スケールを使用する演歌のジャンル(日本の俗歌)と、西欧と全音階の影響を受けたJポップ(ものすごく甘ったるいキッチュ)という2つの主流に分かれた。これで、BABYMETALに到る道の第一歩となる。
さらに上へ!
オッケー、文化交流が一方通行ではなかったことを明らかにするために、もう一歩寄り道しよう。そうだ、Jポップは、THE BEATLESとエルビス・プレスリー、それにその他の西欧のバンドによって最初に火を付けられることなしに現れなかったろうが、1963年には既に、坂本九(エルビス・プレスリーの大ファン)のキャッチーな曲、"上を向いて歩こう"によって米国のチャートは吹っ飛ばされていた。"スキヤキ"の名前で、涙がこぼれないように、上を向いて、口笛を吹きながら歩く男についてのこのほろ苦いバラードのことは、知っているかも知れない。
そう、スキヤキだ。驚くべきビーフシチューだ。いや、日本にある米軍基地に対する日本人の学生による成功しなかったプロテストにインスパイアされた曲の歌詞には合っていない。だが、"上を向いて歩こう"とプロテストと対照的に、西欧はスキヤキが何かを知っていた。事実、これは自国の音楽と料理の両方を伝えることを可能にした、坂本の巧妙な動きだったのだろう。たとえば、ハンガリーのOMEGAは同じようなマーケティング・スキルを備えており、1970年にその曲、("The Girl with Pearly Hair"として知られる)"Gyöngyhajú lány"を"Goulash"と改名することで成功を収めている。
この短い調理のブレイクを後に、50年代・60年代の日本に戻ろう。そこでは音楽産業が興隆し、レーベルが育ち、コンサート・プロモーターがアーティストに金を払うことを学んでいた。これはヤクザが混沌とした状況に入り込んだ後で起こり、最もビッグなアーティストも、卑劣なオーガナイザーのために支払を得られないリスクがあった。
田岡一雄は、組織の黒幕だった。山口組を世界一の犯罪組織に変えたばかりでなく、芸術の興行主として、ロイヤルティーを支払った。抗争のときに敵の目をひっかいたことから「熊」と呼ばれたという事実は、Jポップとは何の関わりもないが、触れないわけにはいけない。
ジャパンズ・ゴット・タレント
だが私たちにとって該当するのは、日本のポップ黄金時代である70年代における発展であり、多くの新しいものが導入された。日本テレビはタレントショーの「スター誕生」の放送を開始し、人々は自宅の居間からポップ・スターの誕生を目の当たりにすることができ、タレント事務所は忙しくなった。幸いなことに、有名になるために必死に働きながら、数多くのコンサートで演奏することで成熟していた、ベテランのミュージシャンが自由になった。
突然、コンサートツアーは成功への唯一の道ではなくなった。テレビがある。そしてそれと共にアイドルが登場した。タレント事務所が、(2〜50人の間の自由な組み合わせの)若い男女の適切なグループを見つけて、スターに変えようとするとしよう。歌唱力は問題ではない。可愛くなければいけない。本当に可愛くなければ。本当に魅力的でなければ! キャッチーなポップ・メロディーとエネルギッシュなダンスの振り付けが残りをやってくれる。アイドルでいることは簡単ではない。本当に音楽や演劇で何かを達成したければ、アイドルの2倍はがんばらなければならない。可愛いアイドルの人生で満足するべきか? 厳しいボーカルとダンスのトレーニングと、様々なプロモ・イベントに出席することを除けば、ファンは傷のないイメージと評判を期待している。男女関係も、セックスも、酒も、ドラッグもなしだ。マネージメントが見張っている。そして運が悪ければ、つまり君のグループが本当に、本当に人気ものなら、解散することはあり得ない。
例としてSMAPに訊いてみよう。数ヶ月前、SMAPは過去28年所属してきた事務所を離れるかも知れないと示唆した。これはとても人気のある音楽ユニットの終わりを意味する。すべてのメンバーが40歳前後であり、もうボーイバンドとは呼べないだろう? たぶん、マンバンドと呼ぶべきだろうか? 重箱の隅をつつくのはこれくらいにしよう。日本の大衆は、このニュースにひどく衝撃を受けたので、SMAPにできたのは、公に謝罪し、皆に対してどこにも行かないと安心させることだけだった。ハレルヤ! バンドは解散を再び発表したので、彼らのために祈ろう。がんばってね!
数には強さがある
私たちのBABYMETALへの道における次の一里塚が示すように、スーパースターの探索は違ったかたちで行うことができる。少女バンド、おニャン子クラブだ。そのマネージャー、秋元康は、独創的なアイデアを思いついた。歌唱力の欠如を数で隠すのだ。秋元は、数人の才能あるシンガーを探すようなことはせず、ステージを11人の少女のグループで埋めることで、音程が外れても簡単に隠せるようにした。特に少女たちがエキサイティングな「セーラー服を脱がさないで」でデビューした時がそうだ。アイドルについて、性的な無垢さが最も重要だと述べたが、時には戯れにからかうことは認められる。君が喫煙者だと明かされない限り。これはおニャン子クラブがステージ・デビューを飾ったのと同じ月に、11人のオリジナル・メンバーのうち6人がそうだと明かされた。6人の罪人全員がただちにグループを離れ、新しい、もっと模範的な少女たちと入れ替わった。
当初の問題にも関わらず、秋元の量に対する賭は成功し、おニャン子クラブは大成功を収め、グループは信じられないことに52人まで膨れあがった。秋元の天才がもう一度姿を現したのはこの時だ。おニャン子クラブは作曲家や作詞からのオファーで圧倒され、秋元はこの機会から最大限を引き出すために、自分の「ミニ・アレクサンドロフ・アンサンブル」を一回限り、あるいはより長続きする複数のより小さなグループに分割したのである。こうしたグループは独自の名前、メンバー、そして特にシングルを持った。メンバーが特に才能があったり、人気があったりする場合にはグループから「卒業」し、自分のソロ・キャリアに集中することができ、別の新人がおニャン子クラブに加わる。絶対的な価値がある!
複数の現在のJポップ・グループもこのモデルを引き継いでおり、例えば、12名の「ローテーションする」メンバー(それぞれが独自の色があるので、ファンが数で混乱することがない)を持つモーニング娘。、最大の現代のグループAKB48(48人のシンガー)、あるいはさくら学院がある。
さくら学院は2010年に結成され、中学からのメンバーの卒業として、メンバーのローテーション・システムのスタイルを取っている。タレント事務所のアミューズは、卒業が、本物の日本の学年末に合うようにスケジュールを組んでさえいる。ミニグループは、「学校のクラブ」となる。料理部、テニス部、プロレス・ファン・クラブ、科学部、そして帰宅部まで。アミューズはすべてをカバーしており、メタル愛好家のクラブ(重音部)もカバーしている。私たちはまだたどりつかないのか? いやたどり着いた!
ハロー(カワイイ)キティ
私たちの語彙を改めよう。あるいはただ一つの言葉、カワイイだ。宮廷の女性であった紫式部が11世紀に「源氏物語」を書いた時、他の品のある言葉と一緒に、ある特定の言葉で哀れさを表した。一つだけ違いがあり、チェコ語ではこの言葉はこの単語のすべての意味をカバーしているわけではない。カワイイの哀れさ、弱さ、そして困惑は、人々に愛を注ぐ。子犬、子猫、赤ん坊、大きな丸い目、丸字の手書き、リボン、ビクトリア調のペチコート、バックル・ブーツ。
カワイサの美学は、日本の女性漫画家が、どんどん自分たちのカワイサの新しいヴァージョンを読者に示した'70年代に脚光を浴びた。日本の女の子たちは、大きな目をした、ふわふわしたスカートをはいた優しく可愛いヒロインの冒険物語を「貪った」。
あらゆるかたちのカワイサが大受けした。デザイナー会社のサンリオは、この機会を活かし、アイコン的な白いハロー・キティを市場に導入した。学校は新しい書き方と戦っていた。従来のエレガントな縦書きの手書きに代わって、女学生たちは、小さなハートや動物で飾られた、丸く、子供っぽい文字を使って左から右に書くスタイルを使うようになった。その方がもっと可愛かったからだ。
そしてポップ・スターももっと可愛くならなければならなかった。牝鹿のような目と純真なオーラを持つ松田聖子はとても可愛かったので、大人の女性も彼女のようになりたかった。当時、十代だけでなく、成人も、可愛いの対象となり、もはや後戻りはできなくなった。カワイサは、日本文化の一部としてどんどん受け入れられていった。ありがたいことだ。だるそうなタマゴのぐでたまやエネルギッシュなピカチュウのいない世界に生きることができるだろうか? これは単に修辞的な質問だ。私たちにとって覚えておくべき重要なことは、カワイサは日本文化の正常な部分であるということだ(これは日本だけではない、韓国を見てみると良い)。成長したからカワイサを捨てる必要はない。ソフトなおもちゃや、可愛い携帯ペンダント、メーキャップ、あるいは食べもので示すことができる正当な美的選択肢の一つに過ぎない。ソーセージの缶でさえ可愛くなりうる。これを微笑む親しみやすいタコに様式化することができる。私たちの(ホットドッグ)からは遠い世界だ。
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日本文化史にすごく詳しいですね。
返信削除文章にユーモアのある皮肉を常時挟まないと
死んじゃう病なとこが、
ロシアの文学に似てますね。
これは後半が大変たのしみな記事
返信削除チェコとかスロバキアは白人率が高くて
返信削除カラード差別が激しくなかったっけ?
BABYMETALの紹介をビートルズとプレスリーから始めるのが良いね!なぜなら、音楽ビジネスの中の出来事の全ての元だから、誰を語るにもそこから始めなきゃいけない。そして、日本の音楽シーンが西洋と同時にプレスリーとビートルズの衝撃波を浴びていたってゆうのも凄く大事で、むしろそこを紹介する為にプレスリーとビートルズから始めたのかな(^^)
返信削除キャンディーズとアミューズの関係には、触れて欲しがった。
返信削除韓国が余分だねw
返信削除関係あるのかないのか微妙なところを突いてくる記事でおもしろいです。
返信削除紫式部を知ってるチェコ人がどれだけいるのか気になります。
音楽は聞いて楽しいが基本だろ。心が弱ってるとヘビーメタル系は聞く気に
返信削除ならないけど、酒飲んでリラックスすると応援歌的で励まされる。