2017年1月24日火曜日

[BaijinPot] 勤勉なセンセーショナリズム:どのように海外メディアは日本を誤って伝えているか

勤勉なセンセーショナリズム:どのように海外メディアは日本を誤って伝えているか

エリック・レブス(2017年1月23日)




休日のために故郷に戻って、日本におけるより新しい生活の側面について会話することになることがある。私の場合、父とウィスキーを飲みながら、耳から離れないピコ太郎の「ペン・パイナップル・アップル・ペン」と、ロック・アイドル・バンド、BABYMETALの魅力について説明しようとしたのだが、父はどんどん困惑していくばかりだった。

故郷の友人や家族とよく話したそれ以外の話題は、自動販売機、暴走族、ポルノの拡散、執着的なファンダムなどのセンセーショナルなものが中心になりがちだ。

昨年の福岡の陥没は、同様の議論を海外でも巻き起こした。素早く分かりやすい見出しと共に、魅力的なビデオは、私たちのソーシャル・メディアのニュース・フィードにとって、完璧なバイラル性を生み出した。

チームスピリットのように匂う

話は、日本はチームスピリット、優れた義欝、そして信じられないような柔軟性に満ちているという、よく海外で大げさに宣伝されている別のテーマに移った。

「日本の巨大な陥没は数日のうちに修繕された」とCNNは書いた。

「日本の福岡における巨大な陥没は、ほんの一週間で修理された」と英国のタブロイド紙、デイリー・メイルは主張した。

「巨大な日本の陥没は48時間で解決し、町は元の軌道に戻った」とロシアのサイト、RTは述べた。

東京ベースの英語紙、ザ・ジャパン・タイムズが使用したありのままの言葉遣い、すなわち「巨大な福岡の陥没で停止していた上下水道などが復旧」と、このような自慢げな見出しとを比べてみてほしい。

わくわくするね。

ここでは2つの問題が働いている。最初はジャーナリズムのタブロイド化と装飾だ。これはおそらく、ソーシャル・メディアのフィードに対してコンテンツが競争力を持つようにするためだろう。

二番目の問題であり、私の第一の関心事は、日本についての特定の叙述に関する強化に関わる。この物語は、常に日本の魅力とアピールのすべてについて、私たちに日本を賞賛させる。効率的で、良く考えられていて、勤勉で、可愛く、おいしい。日本の特徴について適当な友人にたずねてみれば、こうした形容詞のいずれか一つを口にする可能性が高い。JR博多駅から100メートルほどのところにできた11月の陥没は、停電や交通の遅れを生じさせた。

詳細の中のいたずら者

ものすごく効率的で、勤勉で、良く考えられた社会であるという、この日本に関する描写は本当に成り立つのだろうか? 多くの面ではそうだ。そして多くの面でそうではない。

CNNが陥没の修理が「日本の技術と効率の証拠」と書く場合、その主張は、この陥没が近隣の地下工事によって起こされた可能性が高いという事実によって論破される。より正確な文章は、「陥没の埋め立ては、日本の技術と効率の証拠だろうが、同時にそもそも陥没を引き起こしかねなかったことに対する日本の技術の怠慢の証拠でもある」となるだろう。またこのことは日本人の技術者が、自分たちがやっていることを正確に、完全にはつかんでいるわけではないことも示している。

もし陥没の埋め立てが日本の技術に対する証拠であるならば、最近の津波の間に東電の福島第二原子力発電所で冷却システムを維持できなかったという事実は何を物語るのだろうか? どれだけの費用がかかっても自然などものともしないという無私の意欲なのか、それとも地学的に不安定な国における原子力のリスクに関するひどい判断力の欠如なのか?

あるいは、国際オリンピック委員会の副委員長、ジョン・コーツが東京が自分が見た中で最も準備の整った都市だと評価した時はどうだ? その中で、彼は東京が2019年のラグビー・ワールド・カップもオリンピック・スタジアムで開催するという当初の計画の破棄を言いつくろった。この計画は、長く、不要な建設の遅れによって捨てられたものだ。もちろん、別の建築家によって再設計が必要になった元のスタジアム設計に関する妓楼や、やはり納税者が負担することになった再設計を促すことになった元のロゴ案に関する剽窃の厄介な非難という国内での議論も忘れることはできない。

そして日本の都市の公共設備やサービスが、清潔さ、正確さ、そしてこの上ない細部に対する注意で知られているものの、車椅子でアクセスできる場所の驚くほどの欠如、建築基準にまったく従っていないように思える古い構造物、そして日雇い労働者の安全基準に対する無関心に思える姿勢なども存在している。

時には素晴らしい概念

その意味において、私たちが日本について創り上げてきた過度の描写と矛盾する詳細の中には、なかったことにされているものがあるように思える。同時に、この描写を支持する要素は、私たちの先入観を持った概念を正当化するための証拠として、誇らしく持ち上げられている。

この日本に関する説明に貢献した最初の著者の一人がラフカディオ・ハーンで、1890年代に日本に引っ越してきた。その1894年の書、「日本瞥見記」には、まさにそれがある。自分の目の前で繰り広げられたさもなければ世俗的な生活の、新規で、異国情緒化されたバージョンだ。

典型的な日本の都市風景について、ハーンは次のように書いている。「すべてが小妖精のように思える。すべての人々、そしてすべてのものが小さく、奇妙で、神秘的だ。青い屋根の下の小さな家々、青いのれんのかかった小さな店先、そして青い服を着た微笑む小さな人たち」

この国に魅了されて、ハーンは、外から見れば心地よいほど完璧に見える、その成功に驚いた。「これは、幸運と同情を持って中に入ることができれば、外国の観察者は決して倦むことがないであろう生活――時に私たちが自慢する西欧の進化というものが、本当に道徳的な発展の方向にあるのかどうかを時に疑わせしむるような生活である」

大なり小なり

私たちがいまだに、そしてしばしば、今日の日本について書くのは、このレンズ、美学的な新しさを通してである。それが映画「ロスト・イン・トランスレーション」の文化的に引き起こされた感情的な至福の瞬間であれ、アイドルのきゃりーぱみゅぱみゅが生み出した奇妙な、新しいカワイサであれ、トヨタのコマーシャルに出てくる、車を組み立てている滑らかで自動化されたロボットであれ、日本は私たちが西欧に欠けていると思うもの(詳細に対する注目、効率、デザインなど)そのもののA対Bの比較を示す。私たちは、自分たちの国にあるものよりも良いと思っている遠く離れた場所をじっと見つめているのだ。

私たちが色目を使うコンテンツは作り物で、それぞれがメディアのチャンネルやソーシャル・ネットワークを通じて、一つ一つがフィルターされている。これが意図的かどうかはともかく、私たち自身が消費しているこの情報の選択とキュレーションは、より大きな全体の本の一断片に過ぎない。日本は良かれ悪しかれ、私たちがそうあると夢見るすべてのものかも知れないが、それよりもっと多くのものが存在しているのだ。

▼元記事
Hardworking Sensationalism: How International Media Misrepresents Japan


2 件のコメント:

  1. ネガティブな面を含むリアルな日本を伝えようとするなら、団塊の世代が受けた占領政策から特定アジアとの関係まで踏み込まなければきちんと説明できないが、そんなの日本人でさえ難しいよ。

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  2. efficiency って効率という意味だけど、「手際良く」「手際が良い」とかいう
    ほうがしっくりくるような気もしますが、どうでしょうねぇ

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