スパイク付きのブーツをはいた神々:ロック・フェスティバルで神聖なるものを見出す
ライアン・C(2016年6月15日)
「啓示を与えよう、これが私の祈り方だ」—DISTURBED、"Prayer"より
黒衣を着てチャントする人々に囲まれ、奔流のような暴風雨の中で、泥につかった野原に立って、私はそこにいた。一段高くなった台座の上には、三人が、腕を天に掲げ、儀式ばった手のジェスチャーで、俺たちにフォックス・ゴッドを崇拝するよう命じている。
オカルトの儀式かって? 違う、これはダウンロード・フェスティバルにおけるBABYMETALの公演だ!
私は先日に戻って、どれだけダウンロードが素晴らしかったのかについて何かを書こうと思った。天気にもかかわらず(おかげで「ドラウンロード=溺れロードとあだ名が付いた)、泥の中でメタルを聴く大変な苦労の四日間は、覚えておくべき経験となった。
3日間続いた(音楽+二日間のキャンプ)このフェスティバルのために8万人以上がドニントンを訪れた。そしてこれは本当に、宗教的な体験だった。
宗教(religion)という単語の語源は、ラテン語の「re-ligare」(一つに結びつける、あるいは再び結びつける)から来ており、であれば、メタル・フェスティバルは確かにこの宣伝に当てはまる。数万人の人々が、共通のアイデンティティとシンボル(バンド・ロゴ、メタル「ホーン」、黒のTシャツ)と共に、曲を通じて結びつき、歓声を上げ、チャントしながら、同じ音楽への愛情によって一つになる。いずれにせよ私には十分宗教的に思える。
でもこれは、多くの自己修練と本領に耐える強い意志が要求されても、自己否定のための禁欲的な隠遁ではない。これは喜びに満ち、栄光に輝き、快楽主義的な、よりダークな要素を含む、完全な生の祝福である。メタルは死や損失について取り扱うが、しばしばそれをカタルシス的なかたちで行い、結果として癒された感覚を残すのだ。
これは、「聖」の別のビジョンを見つけ出すことができるフェスティバルだ。あらゆる性別のカップルが結婚式を挙げることができる現地のブローアップ・チャーチ[訳注:空気で膨らます教会]から豪雨の中でトール神に賛美歌を捧げるAMON AMARTH、ルシフェルを呼び出すBLACK SABBATH、あるいは宇宙の不思議を讃えるNIGHTWISHの頌歌、そして神秘の「フォックス・ゴッド」に対するBABYMETALの献身まで、様々な「聖」の概念や形態が、響き渡るドラムスと飛翔するメタル・ボーカルの中に表現を見出していた。(悲しいかな、GHOSTはやれなかったが、その崇高なルシフェル的な歌は、ここに良くはまっていたろう。)
そのすべての大いなる喜びは、信仰が問題ではないことだ。私はAMON AMARTHのセットの間、雷鳴と雨の中でトール神の力を感じたが、バイキング神話と結びつくのに、異教徒である必要はなかった。同様に、多くのBABYMETALファンは、稲荷の帰依者であり、数万人の観客の中には、デビル・ホーンを掲げ、"Number of the Beast"をIRON MAIDENと一緒に歌っていたキリスト教徒がいただろう。
しばしばメタルのからかい半分の悪魔主義や、バイキング戦士の男らしさに、真の「聖」なる体験を見出すのは行きすぎと思われるかも知れないが、自らを開けば、それはそこにあるのだ。DISTURBEDだったら、「精神を解放せよ、このXX野郎」というかも知れない。
これはオープン・ソースで、DIYで、神聖だ。教義も、僧侶も、戒律もない。ただ野原と、人々と、飲食物と、仲間と、ものすごく良い音楽があれば良い。エピクロス[訳注:ギリシャの哲学者で快楽主義哲学の祖]は誇りに思うだろう。
リジー・ヘイルの言葉を借りれば、アーメンをいただける?
ボーナスのドゥルイド的瞬間:私はダム・ザ・バードに会うことができた! フェイスブックにポストがあったので、ダウンロードに来るのは分かっていたが、フェスティバルの初日に、ヌードル・バンの外で出くわしてびっくりしたんだ! ドゥルイドキャストの長きにわたるリスナーとして、ファンらしくちょっときゃーきゃーしちゃったかも知れないが、バードは自分が認められて本当に嬉しそうだった。いい奴だ!
▼元記事
Deity in spiky boots: finding the Sacred at a rock festival
なんの話かわからないよユイちゃん
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